今野尚行

絵画―――その人工の肌、



椹木野衣



わたし(あなた)は,いったいどこまでで,わたし(あなた)なのか.
そう思いながら,ふと手を,腕を,足を見てみる.
そこには,たしかに輪郭らしきものが存在している.
はたして,この輪郭に沿って内側がわたしで,その外側が非・わたしなのだろうか.
そんなことは,ない.
目を凝らして,もういちど,よく見てみる.
するとそこには,ささくれ立った皮膚の表皮や,無数の体毛,陥没した毛穴,皺などが存在することがわかるだろう.
そしてその周囲には,さっき抜けたばかりの髪の毛や,剥げ落ちた皮膚の一部などが漠然と広がっている.
それだけではない.
朝,肌に塗ったクリームやコロン,傷を覆う絆創膏,女性ならば化粧用品やマニュキュアなどが,この輪郭らしきものの境界線上で幾重にも層をなし,消滅と堆積の運動をめまぐるしく繰り返している.
質感の多様性ばかりではない.
透明なもの,半透明なもの,反射するもの,湿潤なもの,ドライなもの,溶けてなくなるもの,浸透するもの,定着するもの,保湿するもの…… そこでは,人工のものと自然のものとの境界も,あいまいとならざるをえない.
神から与えられた天賦の自然と,化学的に合成された擬似的な皮膚の層,着色された物質,プラスチック,シリコン…… 実のところ,それらは,とても相性がよい.まるで,最初から所与の自然など存在していなかったかのように.
つまり「輪郭」めいて見えたものは,実際には,見えることと見えないこととの「境界」でしかなかったのだ.はっきりしているのは,それが「境界線」ではないということだ.だが「境界面」でもない.呼吸し内外を交換する境界は,単に一様な面ではないからだ.
「境界層」――聞き慣れぬ,そんな響きが耳をよぎる.
そこでは,様々な「見え」と「見えなさ」,「被い」と「被われ」,「隠れ」と「顕われ」が,ゆっくりと浸透しながら幾重にも層をなしている.しかし,それでいて,そこに「厚み」はない.われわれは,けっきょく,この「層」を正面から見ることしかできないからだ.
面というよりは場というべき,表皮をめぐる,こうした形なき感覚と形ある物質のせめぎあいを,絵画が持つ特性である「平面性」と「正面性」のはざまで,いかにとらえるか――今野尚行の作品で,ていねいに時間を掛けてゆっくりと,しかし着実に探られているのは,たぶん,そういうことだろう.ここでそれを,一枚の絵画をその平面性においてではなく,あくまで表皮性において探求すること,といいかえておいてもよい.いわば,絵画に「肌」を与える行為だ.
もちろん,ここでの「肌」とは,「絵肌」や「肌合い」といったような意味ではない.
そうではなく,人間と社会,自然と人工,内と外といった対立項が,そこを媒介に相対化され,たがいに浸透し合い,ついには反転してしまうような,そのような意味での「非・場所」を絵画の表皮において示すための,それ自体がインデックスのような呼称であるというべきだろう.
今野は,これまでの発表でも一貫してこうした問題を,しかも絵画という,きわめて非・時間的で物質性の高い表現を通じて行って来た.そこに,この作家が自分に課したことのむずかしさも可能性も,矛盾したままあるといえる.今回の個展は,その成果の現時点での集大成といえるだろう.





たとえば,なかでも最大の作品《パッケージ》を見てみよう.
淡い透明な合成樹脂に包まれて湿潤な質感を示しているのは,人と人とを遮断しつつ密着させるための人工の皮膚である.もう少し人間的な言い方をすれば,それは人を深く出会わせると同時に切り離すための境界であり,自然な営為と人為的な行為との媒介をなすと同時に,内側と外側を交換し合いながら,見るものにとっての「裏」と「表」が持つ意味を事実上,決定不可能にする.この人工の肌が持つ,ゆるやかでうつろいやすい反面,奇妙な確実さを持った表皮のドラマを,今野の絵は,むずかしい色彩の選択や絵具の定着,さらにはトリミングの妙によって見事に画面に現象させている.
こうした「肌」の表皮性は,その内外の反転可能性ゆえに,今野の作品において,様々な物質やシチュエーションへと容易に転移していく.





封書に残された口紅の跡を描いた《メッセージカード》は,この痕跡の表皮性を媒介にして,絵を見る際の重心を,口紅を寄せられたものと,それを寄せたものとの関係,いいかえれば,封書の「内」なる内面と,封書の外の社交空間とに分裂させながら,いつのまにか,この絵を見る体験そのものを相対化してしまう.そこでは,絵を「内から見る」ことと,「外から見る」ことが,まったく没交渉のまま,同時に共存しているのである.
それゆえだろうか,今野の絵画はどこか,うつろだ.
このうつろさは,西欧において絵画が伝統的に担わされて来た「受肉」の儀式性とは,およそかけ離れている.
ここであえて,生涯にわたり絵画における「肉そのもの」を追求したフランシス・ベイコンに比していえば,今野の絵のうつろさは,周到に「肉なるもの」を排除したところにおのずと現れる,「絵画の肌」そのものがもつ「物質的なうつろさ」なのだ.


[さわらぎ・のい|美術評論]